漂い始めた夜気が、少女の白皙の頬を柔らかく撫でた。
華奢な少女が、独り帰路を急いていた。
柔和な髪が風に靡(なび)き、繊細な容貌は灯り始めた街灯に優しげに映えた。
確か、新しい茶葉が入ったと言われたのだ。
愉しみを花顔(かがん)に秘めて、また一歩踏み出す。
冷艶な執事のような、仲間の一人が淹れる物は各別に芳醇だった。その一杯を彼女は愛し、今宵も彼と約束をして、戻れば至極の一時が待っている。心も、歩調も軽い。
一閃。
睫に彩られた双眸(そうぼう)に、緊張が走る。
恋織奈はこの黄昏時(たそがれどき)に、招かれざる客が在るのを悟った。
柳眉が顰(ひそ)む。
気配は読むまでもない。
尖鋭な聴覚が容易く足音を拾う。
三人。
見飽きた黒スーツだろう。
敵陣の砂使いにも、もう少し上等な人形(ひとかた)を創って欲しい。
建造物の狭間の露地。
人気(ひとけ)は無い。
視界が仄暗い。
闇が、踝(くるぶし)を呑み気付けば胸元のリボンまで迫っている。
恋織奈は無言で地を蹴った。春風に吹かれた羽毛のようだ。琥珀の髪が緩やかに飛散し、葡萄酒色のスカートが翻る。弾みで覘いた白い裏地(フリル)が、夕闇の濃藍(こいあい)に場違いに映えた。
恋織奈は戸惑わなかった。
鳶(とび)の眸(ひとみ)は微笑すら湛えていた。
音も無く、距離を取り、身構える。
瞬時に、六本の視線と射込まれた殺意が彼女を貫く。迫り来る敵意を何処か遠くに想いながら、尚も彼女は場違いに慎ましやかなままであった。今から晩餐会にでも寄ろうかと言わんばかりの佇まい。その間にも、複数の人影が恋織奈を取り囲む。こんな状況でも、彼女は己の心中に、雑念(ノイズ)の一つも巻き起こらないのを改めて感じた。代わりに凪ぐのは陰鬱な予想のみである。失意の吐息が零(こぼ)れ、湿度を増した大気と交わり、やがて静かに霧散した。
慣れて行く。戦場に。
宵闇の空に暗雲が流れ来る。それが合図になった。
最初の咆哮(ほうこう)。切っ先をかわし反転し跳ね上げられた膝が、一人目の手首を得物ごと粉砕した。ダガーの破片が街灯を反射し煌きながら虚しく宙を舞う。急角度に曲がった手首に狼狽し、絶叫を上げる筈の喉笛は、間もなくの次の手刀に潰れる。飛散するダガーの残骸を浴びつつ、哀れな先鋒は恋織奈の目下に成すすべ無く崩れ落ちた。
果敢な次鋒も軽快に避け、黄昏(たそがれ)の中、細い脚が旋回する。回し蹴りを脳天に受け男は俄(にわか)に怯むしか無い。精確な一撃が、無慈悲に脳震盪を呼ぶ。敵の視界が濃霧に乱れる。朦朧とする瞳孔が捉えたのは、女神の微笑。
「踊りましょう」
差し出された指はか細い。
見惚れるように呆けた男は、次の瞬間、背後にあったショーウインドウに頭から突っ込んで動かなくなる。硝子(ガラス)の粒子がコンクリートを無常に奏でる。故障したケーブルの閃光が眩(まぶ)しい。脱力した男の片手から見せ場を亡くした匕首(あいくち)が滑り落ち、乾いた音を静寂に響かせる。
一拍の円舞曲(ロンド)。
柔弱な印象を、脆く裏切る手腕。
恋織奈の無言の威圧に、最後の一人は慄(ふる)えた。
此方は強襲、相手は単独の少女だった筈である。
喉を押えてひれ伏したまま、或いは、蛛の巣状の罅(ひび)の狭間に頭を預けて眠る仲間。少女と仲間を交互に視やり、残る一人は戸惑うしか無い。男のスタンガンを握る手が強張る。歩み寄る恋織奈の靴音が響く。緩やかに肩を背を、流れる波状(ウエーブ)の髪。顙(ひたい)を飾る赤紫のリボン。あくまで典雅なその肢体と、威力がまるで一致しない。
孤立した敵は自棄になった。
腕が、葡萄樹色のセーラーカラーに攫(つか)みかかる。瞬時にその手ははたき落される。息つく間も無く、男は夜霧を裂いて飛来した踵に側頭部を強打され地面へもんどり打つ。
風が闇空を奔(はし)り、恋織奈の長いスカートの裾が血染めの軍旗さながらにはためいた。
音速の足取りで相手へ肉薄し、細い手首がスーツの襟首を掴み起こす。
「お茶の時間ですの」
男の見開かれた視界が、最後に捉えたのは迫り来る固い靴底だった。
無音の世界が戻る。
一切の気配が散逸した露地。
恋織奈はふとポケットに微細な振動を覚えた。
端末を開くと、秀麗な男性が彼女を待ち受けた。画面の中では、リムレスフレームの怜悧な面立ちが、砂遊びはいかがでしたか、とか聴きながら苦笑していた。
彼女が心配要らない事は、仲間がよく判っている。武器すら形成していない。
背後で倒れた男たちは、否、男だったものは、次第に象(かたち)を無くし単なる砂と化していく。主の元へ退却するのだろうか。
含み笑いが聴こえる。
宵風に塵芥(じんかい)が舞う。
つられて恋織奈の長髪が、濃藍(こいあい)の世に散りばめられる。
飛び去る砂塵を背で見送りながら、恋織奈は可憐に微笑んだ。花弁の唇が囁(ささや)く。
「もうお帰りになるそうよ」
『square・i』
Presenter : Dr.
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