記念習作(献上品)

『夜光玉』






 街灯の煌(きらめ)きが氷の如く闇に溶けゆく夜だった。高層ビルの透間。虚空に、月は無い。路地裏は仄昏(ほのくら)く、雑沓(ざっとう)は遠い。漂う夜気が両翼(りょうよく)を拡(ひろ)げて街を包み込む。
 凍てつく冷気の中、壁に凭(もた)れる二つの陰翳(いんえい)が在った。
 独りは立ち、独りは座している。
 
 霞月は、眼鏡越しに先客を視遣(みや)った。
「斬らないのですか」
「――殺気おへんもの」
 訪(おとな)いを受けた鷹理(おうり)は、頭上の問いに誰何(すいか)もせず柔和に応(いら)えた。
 光の無い睛(ひとみ)が、透徹な声の響く方角をゆっくりと仰ぐ。
 しどけなく羽織った十徳(じっとく)が透間風に漂う。夜風は鷹理の髪も弄(もてあそ)び、白皙の頬が不意に露になる。街の明滅(めいめつ)は此処へは届かない。闇に浮かぶ陰翳。黒髪から覘く、頤(おとがい)は細い。
 彼を至近で眺めるとすれば、鍔迫(つばぜ)り合い以来である。
 混凝土(コンクリート)に背を預け、露地に居座る鷹理は剣呑(けんのん)と呟いた。
「斬ったらあかんお人を斬ったら、お先真っ暗――、あ」
 唇が、弧月を象る。
「最初(はな)からおめくらさんやったわ」
 自嘲が闇に蕩(とろ)け、夜に霧散した。
 陽光は疾(と)く捨てたに違いないその眼が、哀しく感ぜられ霞月は眼を伏せる。その拍子に、黒い傘が視界の隅を掠(かす)めた。蛇の目傘(じゃのめがさ)は、鴉(からす)の濡羽色(ぬればいろ)をして、正(まさ)しく象徴的である。古風かつ華奢な骨組みに反し、芯の隠刀(かくしがたな)は滅法鋭い。宛(さなが)ら、鷹理そのものである。平生(へいぜい)であれば、何処から抜き身の片鱗(へんりん)が閃くか警戒ばかり強いられる。が、今晩の彼からは一切の闘志が漂わない。
 霞月は彼の気配を察し、赴いた。自然な足取りであった。気取(けど)ったは良いが闘気を纏(まと)わない。ただ在るだけである。特殊な眼鏡は探知機を兼ねる。硝子(ガラス)が伝える相手の機微を幾度も窺(うかが)う羽目になった。結果、純粋な憐憫(れんびん)が勝った。
 盲者が、独りで、暗夜に何をしているのかと。
 
 鷹理は、脚を休めていただけであった。
 寒空が堪(こた)える。この間も、寒風は物陰の二人を絶え間なく見舞う。
 黙して沈思(ちんし)していたらしい。可笑しそうな鷹理の嘆息が、静謐に水を打つ。
「もうあきまへんえ、気ィ抜いたら。俺敵(かたき)やで」
「誰かと居たいなと想いまして」
 懐柔された霞月は、嘘を吐かなかった。稀有な艶姿(えんし)に絆(ほだ)されて、何でも喋りそうになる。成程(なるほど)、鷹理は哀艶(あいえん)な男(ひと)である。雅やかでいて、一切の隙が無い。霞月の微(かす)かな緊張も、視えない眼で疾(と)うに見透かされ、きっと発(あば)かれている。
 喉奥の真意が、零(こぼ)れ出た。
「人恋しかったのです」
「――かいらしお人」
 鷹理は、説(よろこ)んだ。
 瞼(まぶた)を閉じ、彼は頸(くび)を捻(ひね)った。蓮(はちす)の茎に似た白い項(うなじ)が、刹那、画然(かくぜん)と際立って戸惑う。眼窩(がんか)には、長い睫が幾筋にも翳を落としている。濃鼠(こいねず)の衣服と古美な十徳が、肌に馴染んで嫌味が無い。暗がりにおいて、和洋の趣が美妙に溶け合い優艶な魅力となっていた。匂い立つ雰囲気は妖美である。 
 霞月は、鷹理の側に腰を下ろした。足場の地質は悪(あ)しく、土の触れる感覚がする。
肉薄しても、視線の絡みは起こり得ない。
 稀に見る弛緩(しかん)した姿に、緩頬(かんきょう)しかけた矢先。 
 鷹理の吐息が白く宙(そら)に散った。
「――杖。無(の)うてよろしおすのん」
 呟きは、あえかだが、現実を錯綜(さくそう)させるのに充分な引力が在った。夜鷹の近親とは言え、日がな刃(やいば)を交える仲である。確かに、丸腰である。示唆とは裏腹。敵である筈の茶人は、相変わらず殺意も怒気も醸(かも)さず安穏と虚空に眼差しを揺蕩(たゆた)わせている。
「何差(なんさし)もご一緒させてもろてますけど――兄(あに)さん、こそばゆいとこ全然お見せやおへん」
「貴方の居合こそ、全く隙が視えなくて僕は困ります」
「てんご言わしゃるなぁ」
 視えんて眼開きさんやのに、と。付足(つけた)された嘲笑に霞月は色を失した。嗤(わら)い事ではない。自嘲する時、鷹理には、何処となく夢の裡(うち)にしか棲(す)めぬような儚さがある。
 街の喧噪(けんそう)が嘘のような、深閑(しんかん)な一時(ひととき)である。
 それだけに、独白の一片毎(ひとひらごと)、よくよく聴こえて霞月は意識の上へ掬(すく)い上げてしまう。
 詫びるも諌(いさ)めるも叶わず、視線を彷徨(さまよ)わせていた時。何か、冷たいものが霞月の頬を掠(かす)めた。細氷であろうか。散逸する透明な鱗片。雨ではない。仰け反ると、ビルの透間から流れ来る暗雲が視えた。寒冷の気韻は増して、露天に投げ出した身が凍(こご)える。
 胡蝶の肢翼(しよく)が散らした鱗粉(りんぷん)のように、綺羅々々(きらきら)と夜空を舞う何か。
「雪になりそうです。いや、雹(ひょう)でしょうか」
「霞月さん――お天気はんは、視えへんのどすわ」
哀しい微笑が、夜に滴(したた)る。        
 鷹理の告白は、霞月の心に重く伸し掛かった。
 天候の移ろいさえ、この人は窺(うかが)い知る事すら出来ないのだ。躊躇(ためら)いがちに、失言を補おうとする仕草さえ、鷹理は全てを読めるようで、白い貌(かお)に苦笑を潜めている。言葉に尽くせぬ繊細な感情の震えが、清水の如く心に湧き流れた。視えない以上、眼を以て言葉にならぬ何かを伝える事は能(あた)わない。寒風の吹雪(ふぶ)く夜でなければ、霞月は自省から、胸に燭涙(しょくるい)のような汗を滲ませていただろう。
 一点の曇りだに無い蒼穹(そうきゅう)の清々(すがすが)しさ。緋色の蜜に浸ったような夕陽の妙(たえ)。庭樹(ていじゅ)の幹に滴(したた)り溜(たま)りゆく夜の叙情。色彩を判じ得ない。即(すなわ)ち、朝も昼も夜も、全てが黒一色の世界でしかない――。独り勝手(がって)に想像し、果てしない孤独と寂廖(じゃくりょう)に狼狽(うろたえ)えた。

 霞月は、砂利(じゃり)を弄(もてあそ)びながら、己が詩人でない事を後悔した。
 沈黙をどう受諾したのか。鷹理の声は憐(あわ)れな程に一層彩(さや)かであった。
「沈まんといておくれやす。雪――どすか。そうやなぁ、傘でも差して行きましょか」
 仄(ほの)かに笑みを湛え、鷹理は手許の蛇の目傘を掌(たなぞこ)で探って、辿(たど)り当てた。霞月は細緻な創りの皓(しろ)い爪を、徒(いたずら)に凝視するより無かった。和琴を爪弾くこの指が、熾烈(しれつ)な一太刀(ひとたち)を生むのである。闘争の渦(うず)に無ければ、風雅な佳人で終わっていただろう。悪に自我を害される事も無く。典雅で枯淡(こたん)な日常を損なう事無く。――空想は疾走し、霞月は厳格な緊張の下、掛けるべき慰めを何も見出せなくなった。
 また見透かして、鷹理は笑む。
「くすんでたかて、しょうおへんわ。一期(いちご)は夢やさかい」
 昏(くら)い睛(ひとみ)は何も映さない。
「此の世は明るい明るいばっかりやおへん。せやよってに、はんなりいきまへんとーーなぁ」
 瞼(まぶた)は双つ綺麗に細められ、濡れた睫(まつげ)が玲々(れいれい)と暉(ひか)っている。識(し)らないのに『光』を語る鷹理の境地は、どれ程のものか。伏せられた睛(ひとみ)を視遣(みや)る。やはり、瞳孔に光は無い。だが瞼(まぶた)は、湖畔(こはん)を洗う細波(さざれなみ)の如く寄せては返し、双眸(そうぼう)は潤いを絶やさない。その美は何処か江湖(こうこ)に在って、幽遠(ゆうえん)で異様なる美しさであった。
 
 恰(あたか)も、一滴の夜露(よつゆ)である。

 稀有な媚態(びたい)に、霞月は改めて嘆息した。今夜、彼を見舞って好かった。弟嫁(おとよめ)にとって代えの利かぬこの人を、必ず眼醒めさせ此岸(しがん)へ引き戻す、と。霞月は誰にともなく宣誓(せんせい)した。自らを嘲(あざけ)るかの如く哂(わら)う彼を、取り戻し、叶うならこの手で黒の世界へ光彩を宿したい。霞月は心中の饒舌(じょうぜつ)を確かめるよう、無言の儘(まま)、頭(こうべ)を垂れた。
 冷たい土を這う手が止まる。
 
 語り了(お)えた鷹理が、やや憔悴(しょうすい)したように想えて、霞月は暇(いとま)を乞い立ち上がった。
「また参ります」
「おはようお帰りやす甘えん坊さん」
 暁(あかつき)か宵(よい)か判らぬ挨拶を添え、鷹理は霞月を見送った。次は再び、一閃の交錯(こうさく)が命取りになる戦場として見(まみ)えるであろう。
 一睡の夢幻に似た逢瀬(おうせ)であった。
 一陣の夜風が、二人を別(わか)つ。鷹理は、遠ざかってゆく跫音(あしおと)を独り静かに聴いた。
 帰路、霞月は頭上を望んだ。知らぬ間、覘(のぞ)いた望月が雲を透かして朧(おぼろ)である。粉雪がちらつき、吹雪(ふぶ)く前である。円鏡(えんきょう)に掛かる、墨色の覆いが少しずつ捲(まく)れてゆくように、月は刻一刻と露(あらわ)になる。夜を経る程、蒼白の月光に潤(うるお)ってゆく路傍(ろぼう)を視て、時の流れを実感する。霞月は、鷹理がこの風光明媚(ふうこうめいび)を決して味わえぬ事を憂い、泣いた。
 時は天(そら)から降り注ぐ。朧月(おぼろづき)に呼応して、華はより馨(かぐわ)しく、蒼林(そうりん)は更に枝葉を伸ばし、渾(すべ)てが或る一瞬へと向けて痛ましい程に盛りゆく。 

 顧(かえり)みて、路に在るのは独りだった。
 闇が鷹理を抱擁した。
 一房の黒髪が夜風に靡(なび)いて、静かに揺れた。
「なんえ、音しはるな思てたわ」
 微(かす)かに打震えるその繊指(せんし)が、先刻まで霞月が居た場所を這(は)い、物憂げな溜息が漏れた。鷹理は紅差(べにさ)す婦(おんな)のように、静々(しずしず)と氷(こお)れる地面をなぞった。指先で確かめ、掌底(しょうてい)を当てる。

――文字である。
 
 微風に混じり、時折砂塵(さじん)や小石の擦れる音がして、視覚を鎖(とざ)された鷹理は直(ただ)ちに、霞月が何か地面に書き遺(のこ)した事が判った。
 伝言をなぞる度、夜も、笑みも濃くなる。       
 触れて読み終えた鷹理は、気の利いた霞月による追伸に、思わず口許を綻(ほころ)ばせた。
 自嘲ではない一笑が、確かに闇夜に灯(とも)る。
 鷹理は、息を吸い込んだ。夜の深潭(しんたん)が彼を待っている。
 
 去り際。鷹理は声に出して、霞月の言葉を一息に読み上げた。
 
『善い聖夜をお過ごし下さい』



 孤影(こえい)が、闇に躍(おど)った。







メリー・クリスマス―― Dr.

0コメント

  • 1000 / 1000

『square・i』

Presenter : Dr.